赦免出来るかどうか

実話から考える、女性の貞操観とは何を意味するのか

手がかりはあった

息子アンソニーは既に故人である事実により、捜索はこれで終了とはならなかった。フィロミナはたとえ息子はいなくても、息子のことを知っている人に会いに行けば何かがわかるかもしれないと、心くじけること無く、次の一手へと乗り出したのです。マーティン以上にやる気に満ちたおばあさんに彼自身が翻弄されてしまうものの、情報を探している中でなんとアンソニーのパートナーだった人物を見つけることに成功したのです。

会うことが出来た息子のパートナーは、すぐさまアンソニーの母親だと気づいたので、死する時までアンソニーがどんな時間を過ごしていたのかを語り始めます。息子は自分を捨てたと思っていたのではないか、フィロミナは少なからず息子から恨まれているとも考えていました。けれど彼女の不安はすぐに払拭され、同時にアンソニーも自身の行方を追っていた事実を聞かされるのです。パートナーだったその男性が差し出したのは1つのビデオ映像、そこには床に伏せて余命長くないアンソニーの姿が映し出されていました。

遠い異郷の地、母と引き離されながらも捨てられたとは思わず、むしろ自分から積極的に探し続けたが、病魔によりアンソニーの旅路は途中で幕引きとなってしまいます。けれど彼の旅路が刻まれた道中には、母に対しての愛情といつか会えると信じている姿が映しだされたことで、フィロミナは満足するのだった。

ここで旅は終わるかと思うでしょう、しかし此処から先にこそ物語最大の謎が解き明かされるのです。

判明する真実

息子のことを知ることが出来たフィロミナとマーティンは一路、イギリスへと帰郷する。そしてもう一度当時の状況を知るために、フィロミナとマーティンは修道院を尋ねた。そこにはかつてフィロミナが署名した一つの種類が残されていたが、記されていた内容にはこんなことが記載されていたのです。

『子供を探すことを断念する』

彼女の直筆で書かれた署名もあり、フィロミナ自身もこの書類については覚えていた。しかし息子のことを諦めたつもりはなく、男との快楽を求めるあまりに罪を犯した自分に対する枷だったと、そう思っていた。マーティンにすればこんな書類を書かせるなんてと、カトリックに対する憤りを露わにします。

そして直後に会った、シスター・ヒルデガードから伝えられたのはまさかの真実だった。

すれ違っていた

重い口を開いたシスター・ヒルデガードが紡いだ言葉、それは修道院に生前のアンソニーが訪ねてきて、母を探していたというのだ。教会としてもそうだが、ヒルデガードは生粋の修道女としてその純血を教会に捧げた信仰者だったため、知らぬ存ぜぬとしてあしらってしまいます。

そう、フィロミナとアンソニーは会おうと思えば会えていたはずだったのだ。その事実を聞かされて、マーティンはシスターに対して激情を覚える。罵声を浴びせられるも、ヒルデガードにしてみればそんなこと知ったことではないといった態度を露わにした。どうしてこんな非情なのか、劇中誰もが思ったはずです。ですが教会に勤めている経験なシスターであれば、それこそ正しい姿であると言えなくもないからだ。

ましてフィロミナは教義に背き、教えを守らずに純血を失った背信者だとヒルデガードは言う。自身はこれまでこの純血を生涯を守りぬくつもり、そうすれば神により近いところへといけると彼女はそう信じていた。だが時代錯誤な思考に到底ついて行けないマーティンは、そんな主張は間違っていると訴えます。マーティンはかつてこそカトリックを信奉していたが、現在に至っては無神論者として今日を生きていた。

溢れ出る怒りの矛先をぶつけるマーティンだったが、対して冷静だったのは他でもないフィロミナだ。そんな彼女がヒルデガードに伝えたのは、赦すという行為だったのです。

もう一つの側面

マーティンにすればどうしてそんなことが出来るのか疑問で仕方がありません、自分の息子と再会出来たはずなのにそれを台無しにされた。この事実は変わりません、しかしだからといってそれにより恨む理由にもならないことをフィロミナ自身がすでに理解していた。彼女が人格者だから、というわけではなく、彼女もまた敬虔なカトリック信者だからこそなのです。

カトリックには処女信奉という概念がある一方で、赦しのカトリックと言われる側面もある。聞いたことがある人もいるでしょう、『汝の敵を愛せよ』という言葉、まさにそのままだった。ですがそれだけではない、フィロミナは続けてマーティンにこう言ったのです。

『赦しには大きな苦しみが伴うもの、私は憎みたくない。 憎んだら、さぞ疲れるでしょう』

罪を犯しても懺悔すれば赦しを得られる、それがカトリックならではともいえる側面です。

結果的にヒルデガードを許したフィロミナに対して、マーティンは生涯彼女を赦しはしないと宣言するほど明確な敵意を見せた。どちらの行動も正しく、どちらも間違ってはいない至極当然なものと言っていいでしょう。この部分は人により受け取り方は異なってくるものの、カトリックならでは、無神論者ならではの価値観が良い意味で対比された瞬間だ。

おすすめ作品

↑PAGE TOP