婚前交渉という罪

実話から考える、女性の貞操観とは何を意味するのか

作品テーマとしても重要部分

あなたを抱きしめる日まで、この作品は主人公であるフィロミナが生き別れた息子を探す物語となっていますが、そもそもどうして息子と別れる事になってしまったのか。その理由はイギリスを始めとした、キリスト教を信奉している国全てに関わる問題に抵触してしまったからだ。フィロミナはキリスト教の中でも特に教派が多いカトリック信者として、幼い頃から信仰者として生きていました。ところがそんな若き日の彼女は1つの過ちを犯してしまったのです。それは宗教的に許されるものではない、罪深きものだった。

婚前交渉、成人する前の女性が男性と性交渉を交わしてしまう行いについて指している。彼女はそれを行ってしまったことで、息子と強制的に別れさせられることとなり、自身が望まざる結末を教会により受け入れなくてはならなかったのだ。最初こそ教会に収容されこそ、息子と邂逅できたが、それも長く続かなかったのです。突如として息子の養子先が決まり、彼女は前触れすらないまま連れて行かれる息子を教会のシスターたちに押さえつけられて、ただ見送るしか出来なかった。

傍から見れば捨てたと思われても仕方がない現実に、彼女はただただ絶望を感じる。しかしそれでも息子といつか再会する、そのことだけを夢見て50年という半世紀以上の時間を費やして、愛する息子の影を追い続けていたのです。その後マーティンと出会い、息子とのことを本にして出版する条件で共に旅立ち、物語は始まっていく。

さて、ここで注目すべきは婚前交渉と言うものについてだ。罪深いもの、そう言われる所以は何かを考えてみよう。

キリスト教だけではない

婚前交渉は先述では話した通り、未婚の男女が性交渉を行ってしまうことを指している。もしこれを行った場合、すぐさま2人は結婚を取り交わさなくてはいけないとする、そんな考えがキリスト教全体に広がっていた。しかしフィロミナは結ばれた男性と籍を入れること無く、未婚の母として愛息を出産してしまったがために教会へと強制連行されてしまったのです。全ての発端とも言える婚前交渉だが、こうなると結婚する前に性交渉をしてはいけないのかという疑問を持つ人もいるでしょう。その点については心配いらない、例えしたとしてもきちんと結婚をしてキリストに報告すれば、戒律を見だしたと見なされはしないのです。

要するに順番を守るかどうかがポイントだ。逆に言えば望まざる性交渉を行って、子供が出来て産んでしまった人であっても、例えどんな理由だろうと罪として見られてしまいます。こうした考えはキリスト教だけでなく、他の宗教においても当てはまる考え方だ。

イスラム教の酷さ

中でも個人的に衝撃を受けたのは、イスラム教の婚前交渉を行った女性に対する扱い方が惨たらしいのです。女性は社会の中で最低辺の存在で、そもそも人権などないに等しい。しかも女性がもし婚前交渉を行うものなら、家族としては殺人すら許されてしまうのだ。では同意があれば良いかというと、それもまた地獄で、性交渉をして娶られても絶対服従を強制されるために、女性以前に人としての居場所は何処にもないのです。

中東情勢を悩ませるテロ組織グループISIS、ここでも日夜女性は取引に使われるほど蔑ろにされた存在だ。実際、憧れて組織入りするもその実態は有志ではなく、ただの性奴隷だったという実態も明らかにされているくらいです。キリスト教と比較しても悲惨さや現実だけで見れば、これほど酷いものはありません。

婚前交渉を行っただけで命を奪われる、宗教が違うだけで罪の重さも桁違いとなってしまうのだ。

キリスト教においても

ですがキリスト教もイスラム教と比較すれば影こそ薄まりますが、非道なことをしていないと言い切れません。何せ戒律に背いた存在として見られてしまうため、シスターたちからは蔑まれ、罵倒され、疎まれる存在として、人間とすら見られないのだ。映画内の時系列で考えると50年前と言えば1960年代頃か、当時でも教会の権限は絶対的なもので逆らった者に居場所を与えなくすることくらい、容易く出来てしまいます。フィロミナにすれば何も悪いことをしていないと自負していた、しかし教会はそう見なさずに彼女は異端だとして糾弾されてしまった。

かの聖女ジャンヌ・ダルクもまた、そうした経緯の下で火刑に処されてこの世を去っています。今でこそ名誉は回復しているものの、キリスト教という宗教の闇で何が行われているか、それを知って唖然とした人も多いのではないか。日本人が見ているキリスト教などあくまで表面的なもの、もし婚前交渉をしようものなら人としての人権は奪われ、生き地獄を見せられてしまうのです。フィロミナはまさしくその例にあてはまります。

批判はあった

余談だが、同作品にも批判はあることにはあった。ただその批判とは映画の内容の中でも、ここでテーマとしてあげている婚前交渉、そしてそこから見えるキリスト教に対しての描写に対してのものです。表現に対してニューヨーク・ポストではカトリックへの悪質な攻撃だと糾弾されたが、同作品の映画プロディーサーを務めていたハーヴェイ・ワインスタインは全面広告を出して抗議するという、そんな一幕が行われていた。この辺りについては遺恨として残っても仕方がないところかもしれません、ですが事実として訴えている時点でどちらに分があるかは明白でしょう。

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