処女としてのあり方

実話から考える、女性の貞操観とは何を意味するのか

そもそも処女尊厳とは何か

女性の純潔、つまり処女は護るべきものであると度々言われている。それは昔から今に言い伝えられているほどだ。カトリックを含めたキリスト教、イスラム教といった世界各地に存在するあらゆる宗派で、女性はその身を穢してはならないと言われ続けています。日本でもよくある、アイドルなどに処女説を唱える人がいるなど、神聖な存在を怪我してはいけないといった、偶像崇拝めいた価値観が存在しているくらいだ。また実際に役職として、かつては純潔を守っていなければ付けなかった職業もある。何を隠すわけでもない、巫女だ。神に仕えるその身は、一切の穢を覚えること無く、一生涯に渡って捧げ続ける必要があるとされていた時代もあります。

では純潔を失えばどうなるのか、それまでの神聖な力が失われ、堕落した存在へと転身してしまう、極端だがそう考えられていたのです。実際、あなたを抱きしめる日までやマグダレンの祈りなどの作品を見ても、修道院のシスターたちは純潔を守りぬき、より神に近いところへとその身をおいていると信じているところが例だ。

狂気と言えなくもない、そして文化として広く世界で浸透していることも間違いない。だがそんな純潔を司教という神の教えを請う存在が蹂躙していたとなれば、奪われた少女はそれこそ神から許されざる罰を与えられたと錯覚してしまうかもしれません。だがさすがにそれではダメだとして、アイルランドのようにマグダレン洗濯所といった場所にいる女性に手を出しても戒律を乱したことにならないといって、暴行に及んでいたのだろう。

性的暴行と処女尊厳

歴史の裏側で繰り広げられていた処女尊厳、対して否応なく奪われてしまった女性たちもいるでしょう。なら女性ではなく、男性に手を出していいというかといえば、無論そんな理屈は通りません。同性愛もまた、キリスト教を始めとした大半の宗教では認められていない。特にイスラム教ともなれば、同性愛の疑いがかけられれば問答無用で殺害されてしまう、そんな社会だ。

だが一方で性的暴行が問題とされる中で、女性に対して処女を説に求めている人が多いのも事実。全く相反する事態で、しかも処女であることを重要視している、逆に言えば経験を持っているだけでダメだと、そう極論付ける人がいたとしてもおかしくない。現に国情として女性への強姦・殺人が問題となっているインドなどは、別の意味で社会を揺るがす事態が巻き起こっているからだ。

蔓延する性的虐殺

今現在、世界で特に性的暴行の末に殺害されてしまう、そんな性的虐殺といえるような所業が日常的に巻き起こっている国といえば、インドが挙げられます。この国では女性は夜道に1人で歩いてはいけないと言われているほど、危険が伴っているのです。またこの国では男性たちに女性に対して、処女であってほしいとアンケートを取ると、実に答えた人の6割以上が処女であってほしいと願っていると答えているのだ。

だが一方で婚前交渉を行っている男性も4割に達しているなど、考え方が一致しない意見が噴出している。これらの結果に対して女性たちは結婚後に処女を失ったと答えているのは8割以上となっているので、女性にすれば身を守るという意味でも重要性を理解していることが明らかだ。

ところが一方で増えている女性への強姦、その果ての殺害という事件が頻発している辺り、もはや価値観だけの問題ではないのかもしれません。けれどこうした現実はアイルランドのマグダレン洗濯所において、2世紀以上に渡り行われていたと考えるだけで背筋が凍るみたいに空恐ろしくなります。

処女であることの重要性が見られるもの

世界全体に広がる処女尊厳について、特にその象徴として見られているのが教徒でなくても誰もが一般教養として知っている、聖母マリアの受胎告知だ。マリアは聖天使ガブリエルにより、自身の体に神の子が宿ったことを告げられます。しかしそれまでマリアは純潔を失っていないため、正真正銘の処女だった。だからこそ奇跡ともてはやされ、こうした事例を処女懐胎として神秘なるもの、原罪に左右されないキリストが誕生した瞬間と言わしめているのです。

処女であれば神秘なる力を失うこともない、そう考えられていただけに純潔を手放した女性がどれほど堕落した存在かはあえていう必要もないのかもしれません。純潔を失っている時点で、女性としても、人としてもまともではない、そう見られていたのだ。

フィロミナのようにはいかない

あなたを抱きしめる日までのフィロミナのように、生涯を通して他人を憎まず、罪を憎まず、全てにおいて赦しの慈悲を持って接してこられた人など少数だ。その非凡さは誰に真似することも出来ないからこそ、作品がヒットしたことにも頷ける。汝の敵を愛せよ、カトリックの慈悲と情けに従っていればマグダレン洗濯所のような実例は、本来起こるはずはなかった。

けれど人が人としてあり続けるせいで、神への教えを過剰なものとして捉えて、堕落したなら何をしてもいいといった極端すぎる考えに変遷していったのかもしれません。性的虐待にしても、自分たちの欲望を捨てきれずにいたがために起こしてしまった、などと片付けられない事態なのは間違いない。

宗教という考え方の下で、幸福になる人もいれば、無慈悲に情けすら掛けてもらえないまま散っていった命が沢山あったことを忘れてはいけない。

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